hiroshi63のブログ

山と妄想あそび

見るということ(覚え書き)



夕暮れの尾根で見る広大なスクリーン一面の赤、夏の濃緑と雪渓の白に空の青、山腹の花畑に咲くチングルマの白やフウロの薄紫、深い暗闇にきらめきながら降って来る星々、山で見る光景と色には強く心を動かされる。それが山登りという行為への最大の動機であろう。


内に深く作用する世界は単に視覚だけによるものでないことは言うまでもなく明瞭である。登攀行為という運動行為や皮膚感覚などの身体性と、対象物や世界に対する感性やそこに生じる心性などが背後にあって目の前の世界をとらえている。しかし、そうした世界もやはり視覚的な知覚が大きくかかわることに異論ははさめない。


では、わたしたち人間の「見る」という知覚はどういう仕組みになっているのだろうか。覚え書きの意味で以下に記しておきたい。




生まれたばかりの新生児の視力はだいたい0.01くらい。20~30センチくらいがぼんやり見えているくらいで、うまい具合に抱っこされておっぱいを飲む位置からお母さんの顔がちょうど見えるくらいになっているという専門家もいるようだ。なるほど、と説得力を感じる見解である。うまくプログラムされているものだと感心した。



その後、視力の発達は1歳児で0.2くらい、2歳で0.5前後、3歳になってやっと1.0くらい。6歳以上になってようやく大人の視力レベルを獲得すると言われている。これには、文献による小学校の中学年頃にようやく大人のレベルになるとするものもあった。視力の獲得ってこんなに時間がかかっていたのかと驚く。自分の幼少時の視力がどれほどだったかってほとんど覚えていない。
 


視覚というものは視力だけではなく、立体視や色覚、認知の発達面からも考えないといけないものだ。たとえば物や空間の立体視ができるには訓練と環境を含めた経験が必要になってくる。人の顔も顔細胞を発育させる経験がなくては顔の認識は出来ないらしい。ベースは遺伝に組み込まれているのだろうが、それを発達させるには経験という訓練が欠かせないとのこと。


認知と視覚の能力には、経験によるニューロンネットワークの淘汰とも言っていい刈り込みと整理が要るという。引き算が必要なのだ。
また、視覚には臨界期というものがあり、それは2歳と言われてる。どうも2歳までに見るという訓練がなされないとその先正常な視覚は得られないらしい。




特殊感覚として分類される視覚は他の感覚と密接に作用しあい影響し合っている感覚だ。動物の中では人間の視力は高いと言われている。人間は外界の情報の多くを視覚から得、外界を知覚するうえで他の感覚よりも優位に働いている。実際、人間の大脳の視覚を司っている領域の割合はかなりを占めているようだ。多くの神経細胞が稼働し、多くの部位が統合的に働き人間の視覚能力を発達させてきた。しかし、視覚にはまだまだ未解明なことが多いのも事実のようである 。



視覚のことを調べていると新生児の驚く能力のことを思い出した。新生児の顔の前で舌を出して見せると真似るように舌を出という発達心理学の実験の話である。あれは新生児には相手の顔が確かに見えているという証拠だが、それよりその反応に驚く。何の学習もしないうちから行為を真似ることが出来ている。
ボディーイメージも未発達な赤んぼが目にした他人の舌と自分の舌が同じ体の部位だと分かっている。生まれながらにプログラミングされた行動というか、本能なのかな、と思える。あれは、ボディーイメージを持ってると言うより、ボディースキーマによるものという方が適切なのかもしれない。無意識の運動プログラミング機能であり、ミラーニューロンがかかわっているんじゃないか?と素人ながら想像する。



レンズとフィルム役の膜がある眼を初めて持った生き物は三葉虫だと言われている。5億何千年か前に現れたということなので、生命の誕生から33億年も経ってようやく外界を見ることが出来る生物に進化したということだ。その頃の生き物は皆海の中で生息していたのだから、水流とか音とか水温とか、像の結びのない刺激を感じて生きていたんだろう。それが突然眼球をもって周囲の世界が見えるようになったものだから世界は一変した。偶然性の高かった捕食行動も確実性の高いものになったので成長、繁殖、繁栄にとても有利になった。



現在わかっている進化の過程からは、完全な眼はある時に突然出現した可能性がある。軟体生物の体の表面にあった感覚細胞が徐々に窪んで原始の眼が出来たと考えられているが、その後のレンズ出現のくだりはよくわかっていないようだ。人間の眼、すなわち脊椎動物の場合、軟体生物とは違って、脳の一部が体表に向かって行き形成されるらしい。そして、陸に上がった生き物から進化した私たちの祖先の哺乳類は、いったん発達した目を逆に退化させてしまう。恐竜の時代のことである。


白亜紀の哺乳類は恐竜が活発な昼間は巣穴に潜んでいて夜に活動していた。哺乳類は夜行生活をするうちに眼球の網膜にあった色を識別する受容体であるたんぱく質を2種類に減らしてしまったらしい。もともと赤、青、緑の3色か、それに紫外線を加えた4色が見えていたのに、その後に青と緑しか見えなくなった。だから、今でも多くの哺乳類の多くは青と緑とその混色しか見えない。2種類の錐体しか持っていないからだ。


しかし、人間はなぜか進化の途中で赤色を感知する錐体を獲得しなおして3色とその混合色で見ることが出来るようになった。赤を感知する錐体を持ったことで人間は他人の肌色を細やかに見分けることが出来るようになり、他人の身体や心理状態の読み取る能力が格段に向上して社会性の深化につながったという見方があるようだ。


色の知覚機能が対人関係や社会性に関係してきたということになる。
犬は色盲だと聞いてきた。3種類の錐体がある人間からすると犬は2種の錐体しかないのだから色盲には違いない。しかし、鳥や昆虫は紫外線も見えるということからすれば人間もそんな連中から見れば色盲だと言える。余談ながら、以前読んだSF小説「地球に落ちてきた男」の主人公である異星人であるアリシア人はエックス線も見えるという設定を思い出した。



動物にしても人間にしても色は波長の違う光を錐体でとらえて脳で色として知覚しているのであって、もともと光に色があるわけではない。世の中の物すべてそれ自体が色を持っているわけでもない。物体が吸収できなかった波長の反射した光を生物が視細胞で電気化学信号に変換して脳が赤だとか青だとか知覚しているに過ぎない。



色盲は、3種類の錐体細胞のどれかに異常があって起こることが多い。錐体細胞には光の長い波長を感知するL錐体、中波長に対するM錐体、短波長に対するS錐体があって、それぞれ赤、緑、青を感知するのだが、多くの場合はL錐体かM錐体のどちらか1つが発現しない2色タイプか、L錐体またはM錐体の機能が弱い2色タイプだそうだ。S錐体の発現しないタイプは稀で、赤か緑が感知できないタイプがほとんどだということだ。色盲は圧倒的に男に多い。性染色体に定義されているから、XYのXに異常があれば発現する。XXの女の場合、どちらか正常であれば発現しない。




色の知覚は人それぞれで、一人一人が見ている色は一緒ではない。上記の知覚や色盲の仕組みや視細胞の感度の差などを考え合わすとそれはわかるような気がする。



新緑、紅葉、朝焼けに夕焼け、花、青空、岩、、、山の色も人さまざまなのであろう。私が見ている山の色も私のものでしかないのである。