hiroshi63のブログ

山と妄想あそび

給餌という行為





もう10年以上前から近くにある山林内の自然公園を散歩している。山登りなどに行かない週末の午前の日課だ。


つまらない団地の中を足速に過ぎ林道に入り、林道の終点近くの小川の渡渉部まで約30分。山道に入る分岐の川には飛び石が敷かれ、その下流部は溜まりになっている。ここが散歩の一つ目の楽しみの場所。


僕が飛び石に足を乗せるや否やカワムツが下流から押し寄せてくる。肩に袈裟懸けしたウエストバッグの中から金魚の餌を取り出してひとつまみ水面に投げ入れるとカワムツたちは水音を立てて激しく奪い合うように餌を食べる。その様子を見るのが好きだ。


一投目が1番。三投四投と続けていくとカワムツたちの動きは緩慢になっていき見応えも薄まってしまう。それでも寄ってくる様子や食べる様子を見るのがいい。長年やっていても全く飽きない。


さて、この給餌という行為、僕だけでなく老若男女が好む行為だ。対象は魚に限らず動物、昆虫、生き物全般ということだろう。公園や水族館、動物園、何処でも給餌のシステムが設けられ、お金を払ってでもしたがる人は多い。


この行為、生き物の飼育経験がない幼児でさえやりたがる様子を見るに、人間が生得的に持っている本能的な行為と言ってもよさそうである。


別に、餌をやって成長後に食らおうという打算がある訳でもないし、他に見返りを期待するというようなことも心内にあるでもない。ただ、食べさせたい、食べさせてみたい、食べる様子を見たいという純粋な行為であり喜びであると思う。


そう言えば、人間同士でも供した食事を元気よく、豪快に、美味しそうに食べてくれる様子は気持ちがよく嬉しくなる、というのと共通するのかも。
これらの感情はなんなのだろう。


私たちの心の内に利他的行為への欲求が備わっていて他を喜ばすことが嬉しくなるから?などと考えていると、一つのキーワードが浮かんできた。「ミラーリング」


生を維持する為の食すというプログラムされた快の行為は、自身の食行為だけでなく他が行う行為も自身の行為と同じように快感と感じるように私たちは出来ている、ということか?
他の本能的な快の行為は自身の欲求を満たす快の行為なのだ、と。


ただ、もう少し穿ってみると、
「与える」という優位的な行為であることが満たす快も潜んでいるような気もしてきた。